「自由論」J. S. ミル
2011年12月22日
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理事長 渡辺 照男
私は18歳のときが1960年、典型的「安保世代」だ。だから(!)マルクスは一応読んでいた(「読んでいた」にすぎない)がミルなどというお方は視野のうちに入ってこなかった。それがなぜか大学などという労働時間の相当部分が「会議」で占められる職場に入り、またいわゆる大学自治・学園自立、つまりは自己統治に関わる難しい問題にも取り組まなければならなくなった。そしてある時、どういう経緯か忘れたがこの本を手にしたのだ。一読、予想に反して素直に共感した。例えば、次のような言葉。
「われわれの意見を反駁しまた論破する完全な自由は、まさにわれわれが、行動の諸目的のためにわれわれの意見を真理であると仮定することを許す当の条件なのである。そして、全能の神ならぬ存在としては、これ以外のいかなる条件をもっても、自分が正しいという合理的保障をもつことはできない。」
ここには、当時の私の「琴線」に触れるものがあった。まずは、論争相手の「完全な自由」を認めるところから出発し、それをとりもなおさず、われわれ自身が行動するに不可欠な何らかの確信を正当化できる唯一の条件としていること。確信を持つことをミルは「真理であると仮定すること」と言っている。ここには圧倒的な理論体系に支えられた信念や、ましてや信仰によってもたらされる「無謬の真理」ではなく、普通の人間(市民)が生き行動するに必要な真理(確かさ)への目線があり、そのぎりぎりの「合理的保障」が「反駁し論破する」自由の(相互)承認だというのだ。人間にはそれしかないのだと。
この引用部分でわかるように、そもそもこの著作は観念的な「意志の自由」を論じようとするものではなく「市民的、または社会的自由」を論じようとするものだった。それは生活者にとっての現実にあり得る自由を探ること、いわば「開かれた自由論」であり、この点わが国の一部の層に瀰漫している、自由とは「自己責任」担保で個人が好き勝手をすることであるとの「閉じた自由論」とはことなるものと言えるだろう。以来、私はとかく「格闘的批判」(マルクス)に走らんとする自らの性癖を反省する日々を重ねているのだ。
しかし、この著作の魅力はいわゆる「消極的自由」についてもなみなみならぬ、あるいは「断固」たる擁護の姿勢を示しているところにある。宗教(モルモン教等)に絡んだ婚姻制度(一夫多妻制)や食のタブー、禁酒運動(禁煙運動ではない!)などについての社会的圧迫に対しミル個人の意見・嗜好は別にしてこれを厳しく批判している。これは当時のイギリス社会の状況に照らして、ほとんど自由擁護の極限にいっていると思える。これらの主張はラディカルとは言え、「公論」に属す。しかし、ミルは「今やあえて奇矯ならんとする者が極めてまれであるということ」を「現代の主たる危険」とまで言うに至っている。それは正義・不正義の範疇とは異なる局面についての言葉であり、私はカントの「あえて賢明であれ」に匹敵する(!)勇気ある言葉であると思う。人に何と思われようと、人を傷つけない限りにおいて、自分のスタイルを貫くこと、またそのような他人のあり方を認めること、それがない「自由論」に生命はないと私は思う。
ミル「自由論」の根本は個人の自立に置かれている。その主張がそのままに生きる場は多くないかもしれない。各レベルの議会は別として、身近なところでは学校組織や広くNPOなどと呼ばれるもの、つまり「自治的運営・経営」体が相当するだろう。そのような場における個人と組織間の関係を考察するにあたって、ミルの思想はなお参照するに値する。私なりの独断でいうなら、個人の責任をどんな組織・団体の「質(しち)」にも入れっぱなしにしないことであり、また個人としての尊厳をいかなる組織・団体によってもないがしろにさせないこと、である。あまりに日本―ちなみにこの漢字を「ニホン」と呼ぶのは昔「危険思想」といわれた時代あり、最近、NHKのアナウンサー例外なく「ニッポン」と呼んでおられるが正直、気持ち悪い―においては個人の集団への埋没が著しい。そのことは矛盾するようだが、自分の属する組織・集団がどのような意思表示・行動をとるかについての責任を感じないこととセットになっている。ミル「自由論」は真剣に自由を生きんとするものが如何に「他者」の自由と共存してゆくか、この現代においてなお死活問題であり続けるテーマに迫ろうとした誠実な著作であり、参照すべき古典なのだ。
なお、ミルがこの著作で何度も共感を持って引用しているフンボルト(ベルリン大学創設者)の「人間の真正なる目的は、人間の諸能力を最高度にまた最も調和的に発展」させることにあり、そのためには「自由と状況の多様性」が必要であるとの思想に現代の福祉観にも通底するものを感じた。
「マボロシの鳥」太田光
2011年3月23日
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研究課 職員 増村紘子
この本は爆笑問題の太田光さんが書いた小説です。
太田さんは、漫才コンビ「爆笑問題」のボケを担当する傍ら、エッセイや『向田邦子全集』の解説を手がけるなど、作家としても注目されている方ですが、彼による初めての小説が、この「マボロシの鳥」です。
年齢は全然違うのですが「うちのおじいちゃんに骨格が似ている!」と、私は勝手にかなりの愛着を持って太田さんの事を応援してきました。彼の、はちゃめちゃな事を言ったりするのにまじめで少し照れ屋なところや、テレビ番組で政治や社会の仕組みについて話しているときの一生懸命なところが好きで、そんな太田さんはどんな小説を書くのだろう、と、とても楽しみにしていました。
この本は短編集になっていて、「戦争」や「テロ」や「魔女狩り」といった、なかなかヘビーなテーマのものが多くあります。これらは生活している中で直面する事はあまりない事柄ですが、誰もが色々と思うところがあるものだと思います。
戦争やテロのニュースを見たときには何だか色々と考えてしまいます。けれど、どうしたらいいのか見当がつかず、テレビで映像を見ても本当の出来事だという実感も持てなくて、あまり悩んでしまうと疲れて「私が考えてもどうしようもないか」と現実逃避してやり過ごしてしまいます。
しかしこの本を読むと、作者がそんな事ひとつひとつを「どうにかしたい!」と真剣に考えている事がとても伝わってきます。深い問題についての話でなくても、普段生活していて感じる矛盾などについて彼が考えている事もたくさん出てきます。全体的にまじめ(?)な感じがするのですが、たまに文章のつなぎ部分などに照れ隠しのように「クルリンパ」などの言葉が入っていたりして、それがまた小説を親しみやすい感じにしていて、さらに、そこで“抜く”感じが作者独特の魅力であると思います。
物語のどれもがとてもおもしろいです。短編集ですので、途中で間が開いてしまっても「話忘れちゃったからまた初めから…」という心配もありません。
テレビでよく知られている芸能人の手掛けた小説なので学生の皆さんにも親しみやすいのではないかということもあり、この作品を少し紹介してみました。自由勝手な振る舞いをあしらわれがちな太田さんですが、この小説を読んで彼の真剣な気持ちを知ればきっと応援したくなると思います。是非たくさんの方にこの本を読んで頂き、ユニークな視点と才能をもった太田光さんの味方が増えたら良いなと思っています。
「思考の整理学」外山滋比古
2011年3月1日
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教育開発室 職員 藤井愛子
外山 滋比古 筑摩書房 1986-04-24
「東大・京大で一番読まれた本」という文庫本の帯に惹かれ、思わず購入した本です。
著者はお茶の水女子大学文学部の名誉教授 外山滋比古氏です。
この方は英文学の先生で、エッセイストとしても活躍されています。
書名からはカタそうな本・・・という印象を受けますが、読んでみると意外にも面白く、あっという間に読めてしまいます。
大学の先生が執筆したこともあり、学習や論文を書くのに役立つ知識が得られます。
私は大学を卒業した後でこの本を読んだのですが、学生時代に読んでいたら良かった…と後悔しました。
本の中では、考えをまとめるための様々なテクニックや良いアイデアを生むためのヒントが紹介されています。
たとえば・・・・
*何か考えが浮かんだら、思考の整理のためにそれを寝させること
*仕事は朝にするのがベストである
*話を聞いている最中はメモはとるな
*ものを考えるときはあまり緊張せず、心をゆったり自由にさせること
*論文等を書くために知識を蓄積しようとするとき、関連書籍を集めるだけ集めるまでは読み始めないこと
などなど、早速実践してみたくなってしまうものが数多くありました。
これまで自分がやってきたことはかなり間違っていたのだ…と、自分の行動を省みて色々と思い知らされました。
学生さんに(もちろん社会人の方にも)ぜひ読んでもらいたいです。
さて、本の中では「すてる」という項があります。
ここで言われていることは、不必要な情報や書籍はすてるべきだとのことなのですが、昨年末に自宅で不要な本を処分するため書物の整理をしていた際、この文庫を捨てることはできませんでした。この本は、私の手元に置いておきたい一冊なのです。
「復活の日」小松左京
2011年2月15日
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教育開発室長 職員 朝川俊二
今、微熱がある。
こんな状況で、この本について語るのも因果なものである。
突然、正体不明の疾病が大流行。インフルエンザのような発熱症状がつづいた後に、突然心停止して死に至るという病。原因もつかめず、対策も打てないままに人類は滅亡。南極大陸に生存するごくわずかな人々を除いて・・・・。
こんなストーリーのSF小説だが、何せ書かれた年代も古く(1970年代を見ずに人類は滅亡する設定)、既に日本SFの古典といえるかもしれない。その後、パンデミックを扱った小説や映画はいろいろ出ているようだが、SARSだの、新型インフルエンザだの、かなしいかな、現実の状況がSFに追いついてしまっている。今、読み返してみれば、また違った衝撃を受けるかもしれない。
この本については、もう1点書きたいことがある。
それは、私自身がこの本に“感染”してしまったという話。
今を去ること30年、1970年代の終わりころから80年代初めころ、とある出版社が、自社の文庫本を原作とする映画を盆と正月にプロデュースし、文庫本・映画・主演俳優・主題歌を一気に流行らせる商売をしていた。実はこの本も映画化されており、中学1年生の私は、テレビ放映でそれを見た。日本映画なのに、外国人を使いまくるは、南極でロケするは、あげくの果てにチリから本物の潜水艦を借りてくるはと、当時としては破格の映画であったことは確か。そんなことよりも、理屈抜きで印象に残ってしまったのは、いつも見慣れた日本の市街地が、疾病に倒れた髑髏に覆われた廃墟となっているシーン。
要するに、某出版社のメディアミックス戦略にまんまとのせられて“感動”してしまったわけだが、インターネットもレンタルビデオ屋も身近になく、結構不便だった当時のこと、映画の余韻を再現するには原作本を読むしかなかったわけである。ところがこの小松左京、蘊蓄は多い、読めない漢字は山ほどあると、四苦八苦。とりあえず分からないところはすっ飛ばしながら、文庫本を最後まで読みとおす経験を初めてしたのである。作品中に散見される、突き放したような冷めた表現に大人の世界を感じながら、13歳の私は背伸びをしていたのかもしれない。その後、同じ作家の作品に手を出しては、のめり込んでいった。
いわば、この本が、文庫本や新書本といった“大人の読書”の世界につながる道を開いたのである。
この本への“感染”は“出会い”とでもいえようか。その時に私の体にできた“抗体”の恩恵に、いまだあずかっているような気がする。
「母親というものは」葉祥明
2011年2月8日
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図書館課 職員 古澤 紀子
「私の一冊」は、葉祥明の詩集『母親というものは』です。タイトルに惹きつけられて思わず手に取ってしまうのは、“母親”という言葉の響きがもつ吸引力によるものかもしれません。“母親”・・・。暖かく心地よくそしてとても切ない言葉の響きです。
著者、葉祥明は画家であり、詩人であり、絵本作家です。彼の数々の作品から発せられるメッセージには、家族愛をテーマにしたものも多く、淡く柔らかな水彩画とともに私たちの心に静かにそっと語りかけてくれます。
この本のタイトルにもなっている見開き最初の一編の詩「母親というものは」の中に著者自身の母が、そして私自身の母がいると感じます。
母親というものは
母親というものは無欲なものです
我が子がどんなに偉くなるよりも
どんなにお金持ちになるよりも
毎日元気でいてくれることを
心の底から願います
どんなに高価な贈り物より
我が子の優しいひと言で
十分すぎる程幸せになれる
母親というものは
実に本当に無欲なものです
だから
母親を泣かすのは
この世で一番いけないことなのです
真の愛情とは無欲でありたいと思うことではなく、無条件に無欲そのものなのです。母親の愛情にはかないません。普段は空気のようにその存在が当たり前だった母親について何かをきっかけにして、人は一生のうちに一度は深く見つめ直す時が必ず来るものですが、私にとってのその時は、人生の節目の年に差し掛かった時、大病で倒れ介護を必要とする身体になった母親と対峙した時でした。
昨日まで楽しく会話をしあえた母とのひと時が、過去の想い出となってしまうなど思いもよらぬ出来事に、ただただおろおろするだけでした。その時、本書に出会って、母から受けた恩について考える機会とともに母親の無欲な愛情に感謝し、その恩に応えたい想いに突き動かされました。
本書は、どのページをめくっても母親からのあふれんばかりの愛が満ち溢れています。
けれど、著者の根底に流れている「父母の恩重きこと天の極まり無きが如し」と頭ではわかっていても、普段は空気のような存在であった母親の愛情は、「己生ある間は、子の身に代わらんことを念い、己死に去りて後には、子の身を譲らんことを願う」(『父母恩重経』)無償の愛だったことを今一度痛切に気付かせてくれる一冊です。
どのような形であれ、一生の中に自分の人生を変える運命の出会いが必ず訪れます。それは、人との出会いから本へ、そして本から人に帰っていきます。
最後に、あとがきに添えられた言葉を記します。
「母と子は、人間関係の原型で、互いに特別な絆で結ばれています。母親の人生に於ける影響力は、計り知れません。そういう意味では、母親に感謝できる人は、幸いです。どんな人生の困難にも耐え、そして乗り越えられる「力」を十分与えられているからです。その「力」こそが、母親だけが与えることのできる「無償の愛」なのです。」
勇気と希望をもらい、そして母の「無償の愛」に感謝しながら。
「真田太平記」池波正太郎
2011年1月18日
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教育開発室 職員 鈴木慎一
池波 正太郎 新潮社 1988-03-01
歴史は、自分自身とつながりが全く切り離された世界で実力者が創りあげてきたものとして捉えていました。
また、試験の際に出題される人物の名前だとか西暦何年にこんなことがあったということを単純に記憶するのみで、断片的に知っている程度で留まっていました。
今回ご紹介する本は、戦国時代を強かに生き抜く姿や武将間の関係性を史実に沿って描かれた池波正太郎作の「真田太平記」(文庫本で全12巻)です。
この本の中では、真田家のもとで諜報活動をおこなう忍者が、何人も描かれております。
ここに出てくる忍者は、1日、40~50里(約160~200km)の距離を走り、気配を消して音も無く武将の枕元に現れるなど人間の能力を遥かに超えた力を持っています。
この忍者の登場が、この本をより面白く読みすすめることができる材料になっていると思います。また、上杉家、徳川家、北条家に囲まれた中で時代の流れに飲み込まれていく幸村と信之の生き様や徳川軍による上田攻めなど、かなり読み応えはあると思います。
行き帰りの電車の中や昼休みの時間で長編小説に挑戦してみてはいかがでしょう。
「車輪の下」ヘルマン・ヘッセ
2010年11月30日
社会福祉学部2年 FUKU
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①心に残った理由
この本は自分が高校時代に・・・・・・・・・・・・・
②特に心に残ったポイント
エンディングが・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
③その他、おすすめポイント
洋書に興味があったけどなかなか手をつけられなかったというあなたにおすすめしたいです。
この本を読んだらヘッセの他の本も読みたくなりました。